東大講義始末記

人生は何が起きるか分からない。五十二年間生きてきた中で、その方向さえ変えてしまいかねない青天の霹靂を私は体験した。昨年(1998年)十一月、東京大大学院建築学科助教授I氏から、非常勤講師就任の要請をうけたのである。
大学教官は、その専門分野において応分の実力さえ認められていれば、原則的に学歴は問われない。だが最近は大学院卒でなければ教官になれないらしく、その弊害も現れてきているという。
そうした風潮に風穴を開けるがごとく、一昨年、元ボクサーで独学の建築家として世界的に活躍している高卒の安藤忠雄氏が、東京大教授に就任したことで大層マスコミをにぎわしていた。
だが私はその安藤氏を下回る?というか高校を中退している身。それも建築家とはおよそ無縁な画家。安藤氏の社会的名声と比べれば無名に等しい存在だろう。
頭の整理もつかないまま、本郷キャンパスの赤門をくぐる。研究室の中から現れたI氏は、気負う私に現在の東大や日本の建築学が今後どうあるべきかを分かりやすく話してくれた。

冷たい現代建築
 日頃漠然とだが、私は、現代建築が人間に冷たく疎外感さえ感じると思ってきた。例えば美術館となると機能美さえ怪しくなり、デザインがわずらわしいだけで静かに絵を鑑賞できない。そこのところもI氏は痛感していて、私たちはすっかり意気投合した。
建築家には建築設計におけるデッサン力が要求される。私の役回りはそのデッサン力を補完すべく講座を担当することだ。それだけなら別に私でなくてもよかったろう。
I氏は言う。「底辺社会を生き抜き人間国宝にまでなった盲目の旅芸人を描く『瞽女小林ハル像』から、木下先生の人生を見つめる視点を感じ、感動した。それを学生に伝えてほしい。創造力を豊かにする最も必要なものだから」
教壇に立つことを引き受けた私は、中学二年だった昭和三十六年夏、美術のS先生から放課後呼び出しを受けた日を思い出した。
「彫塑作品をつくりなさい」。理由も分からず頭像を制作した私を連れ、先生は富山大教育学部彫塑研究室に向かった。そこで出会ったのがO教授(当時助教授)だった。

先生への恩返し
O教授は学生から七十歳を超えた婦人までを集めた、自然発生的な研修会を開いていた。私は少年だったが仲間にくわえてもらった。
O教授は著名な彫刻家、画家、評論家などに私の作品を見てもらえるよう紹介文も書いてくれ、上京の旅費まで工面してくれた。三度の食事にも事欠く生活保護家庭に身を置く私の当時の状況を考えれば、これはもう奇跡であった。
そんな私が若い学生たちを前にデッサンを教える―。先生たちへの恩返しを運命が命じたのかもしれない。
気負いも手伝ってカリキュラム作成に三カ月間を費やし、四月からの講座に臨んだ。
初めに学生たちの状況を少しでも把握したいと『受講目的レポート』を提出させた。一番多かったのは
「絵は好きだが苦手」。無理もない。中学までは美術は必須科目だが、高校は選択だ。東京大を志すなら、現在の受験システムでは、たとえ趣味であっても絵を描くなんて不可能だろう。しかし彼らが建築家として社会に出たときには、表現能力や、豊かなイマジネーションが問われた場合、苦手とは言っておれないのだ。

難病の女性
私の担当する造形基礎講座は毎週金曜日四時間。しかも前期、四カ月間の限られた時間しかない。私は毎回三時間をデッサンなどの実技にあて、残り一時間で私の作品を見せ、モデルの存在を講義した。
中で一番印象深く学生たちが反応したのは、難病にむしばまれ横臥する女性像『二十一歳の闇』だった。同年齢ながら彼らとは正反対の人生を送るのだからショックを受けたのだろう。
何人かにそれぞれの「闇体験」を聞いた。彼らなりに答えてくれたが、ただ一人耳にピアスをした今風の学生が興味なさそうだったので、質問してみた。
「僕には闇はありません!」「あのね!闇というものは光があって初めて感じるものだ。君は闇の中だけにいるから闇を感じないんだ」「そんな・・・」
半ば冗談を彼は真剣に受けとめ狼狽していた。このやりとりを聞いて他の者もショックを受けたらしい。私はこの光景に、三十七年前、O教授に出会った時の記憶を重ねて闇の向こうに光を見たのだった。