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島田陽建築設計事務所
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MakotoShimada's diary

ブックレビュー

一人でも多くの人に読んでもらいたい


ギャラリー島田で発表する画家、福島清の自伝的大河浪漫小説です。ともかく面白のです。それは氏の絵画「日本人への旅」で獲得した「視覚の肉体」と通底しているのです。主題や色彩や構成が喚起する視覚から触発される快感。聴覚、味覚、暗い情念へと導く加虐快感までを含めた総体を肉体化した芸術である。その独自性は無数の書籍を渉猟した博覧強記だけではなく漆黒の闇の中、意識下の情念との交信することで獲得したものです。

美を極め尽くそうという地獄のような道行き。すべての審美の道を歩む一人でも多くの方に読んでいただきたい。かけがえのない一度限りの人生を歩み、心中に「私達は何処から来たりて何処へ行くべき何者なのか」という永遠の問いを抱く同行者として。

島田 誠(ギャラリー島田)

「男達の神話」福島清


津高和一「僕の呪文と抽象絵画」

ブラジルから30年ぶりに故郷へ戻ってくきた津高先生の作品展をギャラリー島田で開かせていただき、大作6点を公立美術館へ寄贈し、収益の一部を刊行のために役立ててもらいました。
内容は自叙伝を中心としたもので、是非お読み頂きたいと思います。
我が心の自叙伝はこう締め括られています。
損得なしの日々が、目下の僕の起爆作用であり、制作も、生活も、ともにこの素朴な原動力で回転していた。
もう空で言えるくらいに焼きついた言葉です。皆さんもギャラリー島田でお求め下さい。
出版記念「津高和一追悼展」は例年通り1月15日~26日に開催いたします。
注:架空通信忌運営委員会・編 神戸新聞総合出版センター刊 \1,500+税

「僕の呪文と抽象絵画」津高和一


「神戸 震災をこえてきた街ガイド」 (岩波書店)
島田 誠・森栗茂一 著

大震災から10年、モダニズムの街はいま、どうなっているのだろうか。繁栄のはじまりの地兵庫、文明開化の窓口三宮、変貌した下町商店街長田.はなやかな歴史と痛切な記憶がただよう神戸を歩き、学ぶためのガイドブック。    
 横文字文化に代表される神戸開港以来の西洋文明を受け入れてきた歴史や、この街の美しさだけではなく、港を中心として1000年前から続けられた開発の努力や、水害や空襲そして震災という災厄を乗り越えてきた都市の姿を見て下さい。 ガイド役を務めますのは、神戸の文化をこよなく愛する一市民、島田 誠と都市民俗学者の森栗茂一です。各章によって文体やニュアンスが異なるのはそのためですが、都市を見る視点は同じで、ダブルスのテニスプレイヤーように、息のあったところをお見せいたします。   
 土地に地層があるように、街にも歴史の積み重なった文化層があります。「今」を歩きながら、それを読み取っていただくのに、この本がお役にたてば、こんなにうれしいことはありません。  
 カラー版で写真も豊富です。新しい神戸の発見、都市の見方をジュニアもシニアも楽しんで下さい。 神戸ではベストセラーのようです。是非!


菅原洸人自伝「四角い太陽」
ギャラリー島田刊行


放浪の画家82年の生涯 東山の山村に生まれ、北海道での大工の見習いをふり出しに、自転車屋の丁稚、船員などの職を転々ととした菅原少年は、やがて画家を志す。目に見えない大きな存在に導かれ、東京から福岡へ、そして紀州から神戸へ、神戸からヨーロッパへ……。
画家 菅原洸人 自伝。


「アート・サポート・センター神戸(ASK)サロンの記録」

ASKの5年間(2000年10月〜2005年9月)の活動記録をまとめたブックレットを発行しました。 ギャラリーを訪れてくれた方に無料で配布しておりますので、是非お立ち寄り下さい。 ※ 数に限りがございますので先着30名様とさせて頂きます。



「アート・サポートセンター神戸の刊行物」

■「アート・プロデュースの現状と課題」
2002年8月から2003年1月にかけてアート・サポートセンター神戸による 6回の連続講座「アート・プロデュースの現状と課題」
の締めくくりに行われたシンポジウム 「神戸のアート・プロデューサー大集合」の記録と、講師へのアンケートをブックレットとして刊行いたしました。実践現場のプロデューサーの率直な発言の記録です
■「神戸に豊かな文化を〜そのための課題と提案〜」
わくわく神戸市民公開講座 ブックレットNo3 2001年2月3日こうべまちづくり会館での島田の講演記録です。

「アート・プロデュースの現状と課題」


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『亀井純子文化基金』のページに基金の助成実績発表
アートサポートセンター神戸のコーナーにある『亀井純子文化基金』のページに基金の助成実績一覧を追加しました。
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島田誠の執筆記録


島田誠の蝙蝠日記

(2004.7)

忙中旅あり2004 「熱いスペイン 暑い神戸 髭の島田」

 ああ、暑い。でも鶯嬢が言う。原稿締め切りは今週末です。 何で?今、ヨーロッパから帰ってきたばかりなのに。でも、書かんといかんのです。 6月16日のからの海外にむけて、仕事が錯綜した。今年の後半は。大事な展覧会が目白押しである。さらに、震災10年に向けて、いろんな動きがある。兵庫県から震災後の文化の状況を12,000字で報告者に纏めるように依頼があって、必死で書いた。あとの纏めを鶯さんに依頼して海外脱出を画したところ、全国を市場とする出版社から、いきなりの出版依頼と、企画を提出していたのが採用になりそうである。いささか慌てる。  嗚呼、嗚呼、嗚呼、嗚呼、嗚呼!!!!!!!!!!!! これで私の海外脱出モードは一挙に仕事モードに切り替わってしまった。  6月16日。前日に、次の展覧会の飾り付けをすべて終えて、帰宅。疲れきって、ともかく機中で読む本や、絶対に忘れてはいけない、パスポート。エアーチケット、辞書などを点検し、ベッドに倒れこむ。 

呆然自失のままに

 今年ほど、海外旅行を周到に準備したことはない。もう20回を下らずに海外の美術館巡りをしている。スペインへは3回目で、前回は13年前のことである。  機中の読書の友はセルバンテスの「ドン・キホーテ」の1,2巻。飯田善国の名著「ピカソ」(再読)。ランボーの「地獄の季節」とマービン・ハリスの「食と文化の謎」である。  ところがである、突然、舞い込んできた執筆依頼に動転して、頭はクルクルパーになってしまった。座席が空いていたのをいいことに3席を占領して、ビール、ワインをがぶ飲みして精神を集中し、ときおりメモをとっている間にシャルル・ドゴール空港に到着した。  乗り継いでマドリーに着いたのが21:15。タクシーでホテルGEGINAへ。夜10時 頃といっても夏時間のでもあり日本の感覚では8時とのこと。スペインの人は夜の食事が、このころから。ホテルはソル広場からすぐ、ゴヤゆかりのサン・フェルナンド・アカデミー(国立美術学校)の隣にある至便の場所。  今回の旅程は、大まかなスケジュールを立てて、移動やホテル情報をインターネットで調べたりして組み立てて、最終段階で、神戸復興塾の仲間である山田和生さんのユニークな旅行社「MY TICKET」に情報をいただきながら決定していきました。今までの半分は現地行きあたりばったりの旅から、少なくとも移動と宿泊は安心しておれましたので、そろそろ高齢者の旅行としては、いい選択だったと思います。  夜の賑わいに驚きながら、ホテルでバッタンキュー。  ぼくの旅行は、すべてそこの文化に体で触れ、最終的には世界の美術の歴史と、それを生み出した時代を自分の五感で確かめたいと思っている。もともと、そんな大層な覚悟の旅ではないのだけど、何度も足を運んでいるうちに、色んなことの関係性が見えてきて、そんな風に感じている。スペインの美術館の凄いところは、徹底して自国の作家を収集しているところで、他国から略奪してきた美術品は極めて少ないことだ。プラドではエル・グレコ、ベラスケス、ゴヤの画家としての生涯を完全に辿ることが出来るし、フランドル派、ヴェネチア派の作品も充実している。他の美術館ではピカソ、ダリ、ミロが網羅されている。  今回の旅の、第一の要点は、このとんでもなく複雑怪奇で数奇な歴史を持ち、どこか狂的な暗部を抱えた国の美術に浸りきり、飯田善国さんの名著に導かれて、印象派、後期印象派、とりわけセザンヌからキュビズム(ブラック、ピカソ)の発見に至る道筋を確認し、その後のピカソの自在な天才的な仕事を系統的に辿ることでした。バルセロナとパリのピカソ美術館には多くの時間を割きました。  それと第2に長いイスラム支配による文明と、レコンキスタ(国土回復)によるイスラムとカトリック文明の混交、そしてフランス支配、フランコによる独裁支配という複雑な葛藤の重層的な文化の跡を垣間見ること。  第3に、今年3月11日(アメリカは9・11)のマドリー、アートチャー駅での列車テロ事件と、それがもとでの政権交代、イラクから軍隊が引き上げた後の街の表情を見る事。

スペインの奥深さ

 スペインはその歴史において多くの暗部をもち、またそれらを克服すべく闘ってきました。マドリー(マドリッド)はアラブ人が9世紀に現在マドリー王宮が建っている場所に砦を築きました。これがマヘリット(アラビア語で砦の意味)=マドリーのはじまりとされており、その後、キリスト教徒軍によるレコンキスタ(国土回復運動)、さらにはハプスブルグ家による支配、フランス・ブルボン家による支配と続き、1936年フランコ将軍の反乱からファシズムの支配が続いたのです。ガルシア・ロルカの暗殺、ピカソの抵抗、チェリスト、カザルスの亡命による抗議など、命を賭けてファシズムと戦った市民を誇りに思う現代スペインと、陸軍ファシズムに抵抗しえなかった、あるいは抵抗した人たちを自分たちの誇りとして持ち得ない、私たちの脆さが、大変心配されます。  "フォーラム2004"を主催しているのはスペイン第2の都市バルセロナです。そこが真正面から、こうした問題を取り上げています。日本では、どうでしょう。イラクの人質事件のあった日、マスコミ首脳は小泉総理とステーキとワインで遅くまで会食していたと聞きます。  まあ、何も期待せず、アートが持つ力を信じて、これが戦争抑止力であり、何よりの人間教育であることを信じて、自分の出来ることに全力を尽くす以外にありません。

ドン・キホーテ

なぜか日本人は、セルバンテス(1547〜1616)のこの本を読んだことがなくても、妄想に捕りつかれて風車に挑んだ騎士ドン・キホーテと従者サンチョ・パンサの話を知っています。ドン・キホーテはスペインの国民的文学といえます。マドリーのショッピング・ストリート、グラン・ビーアの西端にあるスペイン広場には。ドン・キホーテとサンチョ・パンサの銅像があり作者セルバンテスが上から見守っています。  セルバンテスの生涯もまた荒唐無稽なドラマみたいなもので、マドリーに近いアルカラ=デ=エナーレスで外科医の7人兄弟の4番目として生まれ、正規の教育を受けずに、二流のヒューマニストのもとで教育を受けた。スペインの軍隊に入り,1571年のレパントの海戦に参加,胸に傷を負い,左手の自由を失い、帰国の途中,乗っていた船が海賊に拿捕され,彼はアルジェで奴隷として売られた。5年後やっと自由の身となりマドリーに帰った。しかし、望んだ地位や職を得ることができず文筆で身を立てようとしたが,成功を収めなかった。1584年自分より18歳も年下の娘との結婚も破綻,文筆を捨て,いろいろな仕事についたが,その後も破産、投獄を繰り返す人生。しかし窮乏生活のなかで書いた『才智あふるる郷士ドン=キホーテ=デ=ラ=マンチャ』が1605年出版されるとたちまち世間の人気を得た。1616年4月23日,シェークスピアとまったく同じ日に没した。  ドン・キホーテが風車に挑んだのがカンポ・デ・クリプターナです。ここに神戸の画家、徳永卓磨さんが30年前から、毎年2〜3ヶ月滞在して制作しています。徳永さんは、修行僧のごとくに神戸の消え行く風景を描き続け、震災後は毎年1月に幸子夫人とともにそうした作品を発表されています。私は、ご指名を受けて、それらの作品を全て拝見したうえで文を書かせていただいています。カンポは徳永さんの第2の故郷、ひょっとして神戸より愛しているのでは。最近は徳永さんの容姿までがドン・キホーテそっくりになってきたように思われます。  私がスペインに行くと聞いてなにくれと教えてくれ、カンポに来るように誘い、至れり尽くせりの手配をしてくれたのが卓磨さんです。カンポではみんな「タクマ」と親しさを込めて呼んでいます。ここでは詳しく卓磨さんとカンポの出会いを書くゆとりはありませんが、カンポの街を、風車の丘を、広大な畑を描く徳永さんに宿を提供し、食事を世話したのが、今回私たちもお世話になったゴッドマザー・カルメンおばさんです。 カルメンさんは昔、宿屋とレストランをしていたのです。  卓磨さんに 、知り合いにマドリーを案内させるから時間を取れと強要されました。しかし、スペイン語全く駄目、英語も頼りないので気が重かったのですが、折角のおすすめを断るのも悪いので3日目の夜7時にホテルに迎えにきてもらうことにしました。 ホテルでちょっと休憩とリラックスしていると電話がかかってきて、約束の30分も前に迎えが来た。慌ててロビーに下りる。名前はヴィセンテ・アグレッカさん。彼の顔は幸子さんが描いた肖像画そのままだからすぐに分かりましたが、迎えにきたヴィセンテの手元を見るとなんと、画家・藤崎孝敏さんが描いた私の顔のコピーが手配書のごとく握られていたのです。あくる朝、カンポから迎えにきたタクシーの運転手も同じ手配書を持っていたので笑ってしまいました。握手を交わすまもなく、妻と娘が来ているからと車に案内され、すぐにドライブが始まった。控えめな奥さんもカルメン。オキャンで可愛い娘はヒラルー。拙い英語で会話している間に、だんだん分かってきた。ヴィセンテはカンポのゴッドマザー・カルメンの息子で彼が15才の時から卓磨を知っている。奥さんもカンポの人で、この一族を挙げて、ともかく素晴らしいもてなしをしていただいた。この日は、アイルランドの小さな古城のような史跡へロングドライブ。周りはムソルグスキーの「禿山の一夜」のごとき奇景。その後、卓磨の指令だからとマドリーのヴィセンテのマンションへ。なんとアートチャー駅のまん前。テロのことを言うと、オシャマなヒラルーが窓から指を差して100m先のあそこで爆発がおきて窓ガラスが割れそうになって、大騒動だったと言う。  綺麗に整頓された感じのいい住まいに沢山の絵が飾られていて、家族みんなが卓磨の手ほどきで絵を描くという。カルメンさんの作ってくれたギンギンに冷えた飲む野菜、ガスパチョ・アンダルス。照りつけるラ・マンチャの強烈な太陽で大きく育った真っ赤なトマト、玉ねぎ、きゅうり、ピーマン、にんにくなど栄養満点。それにラマンチャ(アラビア語でManxa、乾いた土地)のワインとパン。  家庭料理のおもてなしを受けて、それからタブラオへフラメンコを見に行った。名の通ったタブラオ「Corral del Moreria」。10:30スタート。最後の舞台が、国際的な踊り手 Blanca Del Rey. なかなか熱のこもった、いいショウだった。ほぼ満席。アメリカあたりの観光客が多いように思ったが、地元の人は12時を回ってからくるそうだ。レストランもタブラオも私たちと現地の人では2時間は行動パターンがずれているので、2回転商売できるわけだ。  ヴィンセンテとカルメンさんと別れる時、"アディオス"というと、なんと明日、彼等もカンポへ行くとのこと。  スペインに来ても律儀に6時起床。12時就寝。7時半のビュッフェでたっぷり食べて行動開始。  この日は9時にカンポから当地唯一のベンツ・タクシーが手配書を持ってお迎え。私もこの運転手の写真を渡されていたのです。私たちは列車で行くといったのですが、タクシーを主張して止まない卓磨さんでした。3時間くらいの旅ですが、確かに陸路(鉄路ではないという意味)でないと感じられないリアルなスペインの赤土。オリーブ、ぶどう、アーモンド、小麦、大麦の畑。小さな集落などを回って見せてくれて値打ちがありました。見晴るかす広大な乾燥した赤土の平原に、整然と、まるで仏頭の肉髻(にっけい)のように丘の頂上に至るまで開墾され尽くしている風景は、湿潤な日本の棚田の美しさとまた違った自然に対する人間の意志を感じます。卓磨さんによればスペインは石油以外は完全自給自足だそうです。  タクシーが滑りこんだカンポの街というより村は、通りに人影もなく、鴨居さんの「静かな街」さながらに強烈な白壁と石畳の中で静まりかえっていました。教会の前の家のベルを押し、扉が開き、ゴッドマザー・カルメンのお出迎えです。どこからともなく画板を抱えた卓磨さんと幸子さんが現れ、ひんやりとした、昔はホテルだった部屋の一室に案内してくれたのでした。  スペイン式に2時に食事なので、荷物を置くとすぐにお二人の案内で村の魚屋さんや床屋さんバールなどを、「HOLA」「AMIGO」と紹介をしてくれ、さらに足をのばして ドン・キホーテが戦いを挑んだ風車の丘に上がったのです。11基の風車が強烈な日差しの中に静かに佇み乾いた風が渡っていきます。遠くの丘にも4基。左手にはアンダルシア地方へつながる平野が広がり、後ろには、私たちの背よりも高い紅紫色の頭花をつけた、恐ろしい棘をもった鬼薊(あざみ)が群生しているのです。  卓磨さんのスペイン講座を受講しながら、悪い足元を気にして彷徨うこと2時間、スペインで1,2の僻地カンポの魅力、人々の誇りを淡々と、かつ熱くきいたのです。  ほかの世界を知らない、この小さな村の人々にも、基本的な人間としての尊厳、誇りがあり、それはしばしば、高い教育を受けた人より正しい。子供たち、若者の表情。躾、愛情など、短い滞在でしたが、この人たちの暖かいもてなしの中で、卓磨さんの解説付で、感じるところが大でした。  きっちり2時に昼食がはじまり、まずはゴッドマザーに連れられて、下のバールで食前のビールを1杯。食堂にもどってカルメンの妹さんの手によるガスパチョとヒヨコ豆と鶏肉、血のソーセージの一皿。ワインとパン。こうした飾らない郷土料理を4回、カルメンの妹さんが作ってくれたのです。ちなみに翌朝は、日曜日の特別なパンだというドーナツのような揚げパン"チョロス"を近くに買いに行きました。目の前で蚊取り線香状に大きな鍋で揚げてくれ、ハサミで切って袋にいれてくれるのです。家へ戻って、熱いコーヒーに漬けながら食べるのですが、これが美味しいのです。  まったく偶然に、この日、村祭りに出くわしたのです。4月30日に隣村の教会から春を招く花のマリア様が、この村の教会へ降臨され、6月の初旬に戻られるというお祭りらしく、それが先週、途中で雨にあって、引き返されたとか。今日、あらためて村を挙げてのお見送りということらしい。老若男女のブラスバンドを先頭に、8人のハンサムで屈強な若者に担がれたマリア様の山車に、子供も、大人もみんな着飾って、村を練り歩くのです。お年寄りは家のまえに椅子を出してお見送りをします。  8年前、シチリア島の山岳都市エンナで、白日夢のごときお祭りに出会ったことを思い出しました。ちょうど学生たちの夏休みが始まったとかで、村中に祝祭の気分が溢れ、マドリーからヴィセンテ一家ののみならず、スペイン軍の将校に嫁いでいるヴィセンテの一つ上の姉が3人の子供を連れて帰ってきたのです。まあ、賑やかなこと。  カルメンおばさんは、私たちがスペイン語を話せないのを不思議がり、卓磨さんによると、家でごろごろしていたり、日本の本を読んでいたりすると「なんのためにここにいるのか?」と聞くそうです。それもあって、卓磨さんは翌日も、朝から私たちを連れ出し、絵の世界でおなじみの澄み切った青い空のもとの広大な畑を、延々と案内してくれるのでした。麦が刈り取られるのを待って、休耕田、刈られた麦畑、などが織り成すラマンチャの大地を強い太陽を全身に浴びながら、規則正しく、修行僧のように描き続ける卓磨さんのライフワークの秘密を納得したのでした。  かれらの家族の絆の強さには感心しました。今回の旅でもっとも印象に残ったカンポの時間については、もっともっと書くことがあるのですが、次へ急がねばなりません。  最後の食事の時、私は簡単な挨拶をスペイン語でしました。  紙を持っているとカルメンおばさんが「ハポネス?」と聞くのです。
  「ノン」と言って    

Muchisimas gracias por innvitarme  
Lo he pasado muy bien  
Tiene que visitar sin falta Japon  
Adios  
(お招きいただいて、ありがとうございます。  
 とても楽しかったです。ぜひ、日本にも来てください。  
 さようなら)というと、やんやの喝采でした。

 次回の「忙中旅あり」では、トレド、コルドバ、グラナダ、バルセロナ、
パリを巡り、さらには、美術館で考えた事を書きたいのですが、
 一回で終わるかなあ?


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